連載小説









































































































へりろち


弾 射音


第5回


 でも、どうして?
 意識したら、そんなむずかしいこと、できっこないじゃない。いちいち言葉を一文字ずつおきかえてたら、あんなにすらすらしゃべることができるはずはない。できたとしたら、よっぽどの天才なんじゃないだろうか。ざんねんだけど、佳子はごくふつうの高校生だ。
 ――待てよ?
 ふられた?
 アオシマ?
「あっ!」
「どうした?」
「あいつ――青島にふられたのか――」
「青島にふられたって?」
 アニキが言った。あたしはとっさに口をつぐんだ。
「言えよ。言い触らしたりしないから。その、佳子ちゃんは、青島ってやつにふられたのか」
 あたしはアニキを上目づかいに見た。
「たぶん、そうだと思う。青島のこと、好きだって言ってたから。だいぶ思いつめてたの。きっと、青島本人に告白したんだ」
「で、ふられた――と」
「おそらくは」
「なるほど」
 あたしは、彼女がきのう、雨にずぶぬれになりながら口走った言葉を思い出した。

  いかすみけあぬへりろち
 それをワープロ用紙に書いて、ひとつずつ文字をなおしていく。


い か す み け あ
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
あ お し ま く  

「アニキ」
「なんだ」
「『あ』はなんになるんだろ」
「そりゃ――」
 しばらく、あいうえおかきくけことぶつぶつ言っていた。
「――『ん』じゃないのか。たぶん」
「そっか」
 あたしはつづけた。


あ ぬ へ り ろ ち
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
ん に ふ ら れ た

「あ、お、し、ま、く、ん、に、ふ、ら、れ、た――青島くんにふられた。そうか! アニキ、ちゃんとつじつまがあうよ」
「そのようだな。おそろしいくらい、ぴったりする。暗号と呼ぶには単純すぎるが、それでもちゃんと暗号になってるぞ」
「だけど」
「まだなにかあるのか」
「こんな――こんな、冗談みたいなことある?」
「冗談ったって、げんにその子がそういう言葉をしゃべってるんだからしょうがないだろう」
「そうじゃなくて、こんな、いちいち考えながらやらなきゃできないようなこと、どうして佳子がすらすらしゃべったりできるのかしら。ほら、あたしたちだって、いちいち紙に書いてみて、やっとわかったわけじゃないの」
「まあな。でも、人間の潜在能力ってのははかりしれないものだからな。無意識にそうやってるってことも、じゅうぶんありうるんじゃないか」
「そうなの?」
「心理学的に言えば、そう説明できると思う。あるいは、過去にそういう言葉遊びにのめりこんだことがあったんじゃないかなあ。それがいまになって突然よみがえったとか」
「でも、どうして」
「たぶん、その青島ってやつにふられたショックで、そうなっちゃったんじゃないか」
「簡単に言うけど。うーん。にわかに信じられない」
「信じようが信じまいが、とにかくそれでちゃんとうまく説明できるんだから」
「それじゃ、ま、そういうことにしとくけど」
 が。しかし。それにしても。
「あの、アニキ」
「なんだ」
「と、いうことは、あたしたちに佳子の言ってることがわからなかったのとおなじで、彼女にもあたしたちの言ってることはぜんぜん通じてなかったわけ?」
「とうぜん、そうなるだろうな。たとえば、おまえが彼女に『佳子』と呼びかけたとする。だが『よしこ』は彼女にとっては『ゆさけ』という言葉にしかとれない。おなじように、『美登里』は『までら』、『テレビ』は『つるば』、『ビデオ』は『ばづえ』になってしまうわけだ」
「なるほど。まわりの人間が言ってることがぜんぜんわかんないんじゃ、部屋に閉じこもって泣きはらしてたのもうなずける」
「そりゃ、本人は深刻だろうな。テレビつけたって、なに言ってるかまったくわかんないんだから。ひょっとしたら本や新聞すら読めなくなってる可能性もある」
「どうしたらいいんだろ」
「ん?」
「どうやったらなおるんだろうな」
「さあな」
 アニキはふたたび腕組みをした。
「その、青島とかいうやつにふられたショックからたちなおれば、自然になおるんじゃないか」
「そうかなあ」
「ああ。時間が解決してくれるだろうよ」
「うーん。そんなに簡単な問題ではないような気もするのだが」
 あたしもふたたび腕組み。
「佳子のやつ、けっこう神経が細いからなあ。時間が解決してくれるにしても、おそろしく長い時間がかかるんじゃないだろうか。そのあいだ、たとえ学校へ行っても授業やなんやかやがちんぷんかんぷんでは、すごく困るよなあ。時間が解決するのを悠長に待ってられないと思うんだけど」
「だったら、病院へつれて行けばいいだろう」
「なんの病院?」
「一種のノイローゼみたいなもんだから、たとえば神経科とか」
「え? 話がえらくおおげさじゃない?」
「そんなことないさ。だいいち、このノイローゼそのものがおおげさなことだろう」
「まあね。尋常でないことはたしかだ。うーむ。これは困ったぞ」
「もうひとつだけ、手がある」
「え? なに?」
「その青島ってやつに、佳子ちゃんとつきあわせるんだよ。嘘でもいいから、そいつに佳子ちゃんのことを受け入れさせるんだ。まあ、へたをすると佳子ちゃんをだますことになってしまうわけだが」
「なるほど――でも、青島がOKするかどうか」
「そうだな。それに、もしもだまされてることがわかったら、もっとひどいノイローゼになって、とりかえしのつかないことになる可能性もある」
「そうよねえ。いっそ、みんなでガンガン青島の悪口言って、佳子に青島を嫌いにさせるか」
「そううまくいくかねえ」
「じゃあ、どうしたらいいのよ」
「――わからん。とにかく、しばらく様子を見ろよ。あんがいすぐになおっちまうかもしれないだろ」
「そうだね」
 あたしは腕組みをといて立ちあがった。
「ありがと。ま、あたしたちがなんとか彼女の言葉にあわせて、五十音を一文字ずつずらして、彼女と意思の疎通ができるようにしてみるわ。対策はそれから」
「じゃあな」
 アニキも腕組みをやめて、つけっぱなしになっていたビデオに向きなおった。
「おやすみ――」
 ドアのノブに手をかけて、あたしははたと立ちどまった。「待てよ?」
「どうした?」
 アニキがふりかえってあたしを見あげる。
「ひとつ気になることがある」
 あたしはあわててテーブルにもどり、腰をおろしてワープロ用紙とボールペンをとりあげた。
「ただ言葉が一文字ずつずれてるだけならまだいいんだけど」
 などとぶつぶつ言いながら、あたしはボールペンを走らせた。
「なんだなんだ」
 アニキがワープロ用紙をのぞきこむ。あたしはそれにこう走り書きした。

  おーあおあおあおあおあ

「なんだこれ?」
 アニキが声をあげた。
「こう言って泣いてたのよ、佳子が。おかしな泣きかたでしょ? で、これをこうすると……」
 あたしはおそるおそる、それを一文字ずつ置き換えてみた。


お あ
↓ ↓
え ん

 と、いうことで、


おーあおあおあおあおあ

えーんえんえんえんえん

「ずるっ」
 アニキとあたしは同時にずっこけた。
 安心していいのか、心配が増えたのか。とりあえず、五十音がずれてることのほかにはやっかいなことはなさそうだ。



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